【2012年3月10日/2023年9月追記】西部古書会館、中野ブロードウェイ、ささま書店

【2012年3月10日】
9時15分、高円寺駅で電車を降りると即売展のご常連の姿がちらほら。ときには構内の御手洗いの朝顔で隣合うこともある。
昨日からの雨はつづく。西部古書会館、古書愛好会展。
ガレージで、木本至『雑誌で読む戦後史』(新潮選書/昭和60/4刷)100円。木本氏の著作では、やはり何と言っても『オナニーと日本人』をいつかどこかで入手したい。
屋内会場に入って瑞香書房の棚にて、各種内容見本の束のなかに埋もれていた菊正宗の戦前の小冊子『菊正宗』(本嘉納商店/昭和12/改再版)300円。
購入2冊。

「菊正宗」表紙
『菊正宗』(本嘉納商店/昭和12/改再版)

中野まで雨中を歩く。
ブロードウェイ4階、まんだらけの均一棚で眼を光らせているのは即売展の常連の一人。もちろん先程も西部会館でお見かけしたばかり。古本好きが古本に沿って歩くと、だいたい同じような足取りになるようなのである。
2階に降りて古書うつつ。今日のブロードウェイは、眺めるだけで購入なしに終わる。
ふたたび徒歩で高円寺に引き返す。雨はやみそうになった。喫茶ネルケンで珈琲を飲み、『百鬼園先生と目白三平』をすこし読む。
荻窪、ささま書店。
中公文庫版、徳川夢声『夢声戦争日記』全7冊(中公文庫/昭和52)が2625円なら買ってしまおう。
長新太『ユーモアの発見』(岩波ジュニア新書/昭和59)210円。ジュニア新書のなかでは案外と見かけることの少ない1冊だ。じつはさっきのまんだらけにも入荷されていたのだが、525円だったので見送った。どういう力が働くものか、いちど見かけると連発となるのは古本の妙だが、そしてたいていは値段の高いほうを先に買ってしまってがっかりするものなのだが、今日はうまく行った。
『評伝有元利夫・早すぎた夕映』米倉守(青月社/2008)210円、追加する。
紙袋を提げて本を売りに来た御仁は、やはり即売展のご常連。ささま書店に本を持ち込む姿は以前にもお見かけしているし、店員さんが気さくに声を掛けているので、買取のご常連でもあるようだ。しかし、さっきの西部会館の入場待ちのときにはこんな大きな紙袋は提げていなかったはずだから、これらは自らの蔵書の処分ではなく、最初から売るつもりで、即売展で仕入れたばかりの本なのだろうか。
3、40冊で、1万2000円を受け取っておられた。結構な買取額だ。すると氏は、昔ながらのせどり・・・の末裔なんだろうか?
そのほか、寺島珠雄詩集『あとでみる地図』、分厚くて重たい『多田不二著作集詩篇』など目についたが、いずれも3150円。このあと夕方から酒宴があるので散財は控える。
垂涎は真鍋博漫画集『寝台と十字架』18900円だった。

長新太「ユーモアの発見」表紙
『ユーモアの発見』長新太(岩波ジュニア新書/昭和59)

【2023年9月追記】せどり
読むために買う、売るために買う、買うために買う。本の購入目的は十人十色。
ささま書店でお見かけした御仁が、ほんとうに即売展で買ったばかりの本を売っていたのかどうかは、何とも判りません。
近所にお住まいで、一旦家に戻って、処分する蔵書を持ってきた。実際はそんなところだったのかもしれませんが、いずれにしても店頭の買取で1万円を超える額を得るということは、良書を見極める眼力をお持ちの方だったのでしょう。
古本を買って、すぐ売る。
いくらなんでも酔狂に過ぎるようでもありますが、そこに幾許いくばくかの収益が伴うならば、いちど始めたらやめられないというような、実益を兼ねた趣味(錬金術?)なのかもしれません。
「せどり」とは、たいへん大まかに言うと、安く買った本を高く売って差額を得る行為、またそれを行なう人を指します。
古くからある古本用語で、明治年間にはすでに使われていたようです。
昭和11年刊行の古典社編『書物語辞典』には《せどりの営業は、店舗から店舗を訪問して相互の有無を通じて口銭を得るのを目的とする》と定義されています。
「背取」「糶取」の漢字を当てるとし、また「セリドリ」「サイトリ」という説もあるとしています。
『広辞苑』(岩波書店)には「競取」という漢字表記も見られます。
「糶」とはまたずいぶん難しい漢字ですが、日本では「せり」の訓があり、「競り」と同義語です。
「競り(糶り)取る」からせどりなのか、「(並んでいる本の)背表紙を抜き取る」からせどりなのか、諸説ありますが、語源や発生の時期に定説はありません。
『書物語辞典』でも、語源不明としています。
A店から依頼された本を、どこか別のB店で安く買い求めたのち、購入額に上乗せをした金額でA店に納めて利益を得る。もともとは、業者の中間に入って売買をする、謂わば取次のような形態でした。
店舗は持たずに、身ひとつで渡り歩く古本無宿です。
せどり専業で生計を立てる職人も存在したようですし、せどりから叩き上げてのちに古書店を開業した例もあるようです。
久源太郎著『古本用語事典』(有精堂出版/1989)によりますと、老舗古書店「琳琅閣」の斎藤兼蔵氏や「文行堂」の横尾勇之助氏は、古書店を創業する以前、それぞれ明治初年にはせどりをしていたとのことです。
古書市場が全国的に確立し、その近代化が進むにつれ、相場の隙をついて利鞘を稼ぐようなせどりは衰退してゆきます。
昭和後期ともなると死語に近いような言葉でもあったはずの「せどり」ですが、しかし近年になって俄然よみがえり、むしろ最盛期と言えるほどの盛り返しを見せてることは、周知のとおりだと思われます。
「せどり」は一般語として定着したとさえ言えそうですし、「せどらー」なんていう派生語も誕生しました。
バーコードを読み取る小器具を駆使して、次から次へ、買物籠一杯に本を積み上げる。黙々と作業に励む光景を、ブックオフではしばしば見かけます。
即売展の会場でも見かけることがあります。
過去のせどりとの大きな違いは、業者と業者の間に入るのではなく、業者からの品物を直接顧客へ。取次というよりは、転売という意味合いが強まっていることでしょう。
自分(自店)で販売するための本を、他店から仕入れるというわけです。
古書会館の市場(交換会と言います)を利用できるのは組合員に限られますから、個人経営で組合に加盟していない古書店にとって、せどりは命綱のひとつとなりましょう。
現代に隆盛するせどりは、大量購入が特徴のようでもありますが、そこまではゆかなくとも、自分のお店に向いている本を他店の棚から買い求める古本屋さんはあります。
「抜く」などとも言って、昔から行なわれてきました。
小さな店舗においては、同業者が露骨に買い漁るのは歓迎されないとも聞きますから、数冊から十数冊程度の抜き買いなのでしょう。
この小さなせどりの対象となる本は、たいていはバーコードの付いていない本です。
器具を頼りに機械的な集書をするというわけには参りませんから、何を取り、何を取らないか、知識と経験と勘が物を言います。
即売展の会場には、古本屋の御主人もお客さんとして訪れますが、目当ての本を棚から抜き取る手捌きは、一目見て玄人と窺い知れるほどの鮮やかさです。
眼と手が同時に動くような早業です。
世の中の移り変わりと共に、独立した業態としてのせどりは消えてゆきました。
しかし行為としてのせどりは、古い本が古い本のまま残り続け、それを商う古本屋が残り続ける以上、綿々と絶えることなく受け継がれてゆくのでしょう。