【2010年11月11日/2023年2月追記】ささま書店で『谷中安規の夢』

【2010年11月11日】
今日は一日、ごろ寝に専念する決意でいたのだが、天気は良いし、やっぱりむずむずする。
さて、どこへ行こう。
荻窪、ささま書店へ。
美術展の図録を集めた棚に『谷中安規の夢』(松濤美術館他)が出現している。
刹那、どよめくが、糠喜びをせぬようにと心臓をなだめながら値段を確認、8400円。
そうだろう、いくらささま書店とはいえ、それくらいはするだろう。元に戻す。
文芸書の辺りをうろうろしていると、古書会館の即売展でよく見かけるご常連の小父さんが、本を売りに来ていた。
『駅弁掛け紙ものがたり』上杉剛嗣(けやき出版)630円を手にとり、なお店内を巡回しながら、さっきの『谷中安規の夢』が心に引っ掛かる。
15000円の値が付いていた悠久堂のほかに、こうして現物に出くわすのはまだ二度目であるし、これは古本の神様からの、ささやかな贈り物なのかもしれない。
しかし贈り物にしては自腹で8400円……。しかし……。
一応は購えるほどの手持ちがあるということが、血液を沸き立たせるのである。買ってしまえ!

慣れない金額の買物に、店を出てもしばらくは動悸がする。
隣りの西荻窪で降りて、盛林堂書房へ寄る。
徳川夢声が揃っていて、こうなった以上は、残金で買えるだけ買う。
ダンテで珈琲。すっからかんの、古本好日。

購入メモ
*盛林堂書房/西荻窪
『地球もせまいな』徳川夢声(旅窓新書)1000円
『こんにゃく随想録』徳川夢声(鱒書房)1000円
『夢声随筆』徳川夢声(河出新書)300円
『あなたも酒がやめられる』徳川夢声(文藝春秋新社)1000円

「谷中安規の夢」表紙
『谷中安規の夢』図録/渋谷区立松濤美術館編
(渋谷区立松濤美術館・須坂版画美術館・宇都宮美術館・アルティス/2003)

【2023年2月追記】
100円、200円、500円。小銭で満喫できるのが古本散歩の魅力ですが、もちろん、どうしても小銭では追いつかない本はたくさんあります。
余程の高額であれば、むしろすっきりと諦めがつくでしょう。
手が届かないわけじゃない、ぎりぎりの線上に現われたとなると、胸を搔き乱されます。
そのたびに奮発していては経済が破綻しますから、たいていは自分で自分をなだめて(あるいは言いくるめて)、その場を立ち去りますが、いよいよ悩ましいのは、それがずっと探し続けていた1冊の場合です。
千載一遇だ、と思い、また、頑張ればもう少し安く見つかるのでは、と思う。
古本の神様からの贈り物かもしれず、それとも古本の悪魔の甘い誘惑なのかもしれない。
時には、思い切って買ってしまいます。
日時、天候、場所、心身の状態など、ぴたりと波長が合うと言うのか、ただ単に取り憑かれたと言うべきなのかはよく判りません。
しかし意を決して購入したあとは、爪先から頭のてっぺんまで、妙に風通しがよくなります。
もやもやが晴れ渡り、こうして、我が古本人生の器はひとまわり大きくなるのではないか、などと偉そうに考察してみたりするわけです。実際はなっていないとしても、なったような気持にはなります。
8000円で悩むか、80000円で悩むか、散財の基準は人それぞれですけれど、この日の古本購入の総額は12330円。このあたりが限界であることは昔も今も変わりません。
  ◇
谷中安規【たになか・やすのり、1897(明治30)-1946(昭和21)】は木版画家。
幻想的な作風で知られます。下水口をコーヒー粉の滓で詰まらせてしまうほどコーヒーが大好きだったそうです。
『谷中安規の夢』に収載の「谷中安規年譜」(瀬尾典昭編)を見ますと、昭和3年、神田の本屋の屋根裏部屋に住んでいたことがあり、《店内装飾をまかされ夜中になると一階の店の本棚にグロテスクな模様の彫刻をほどこしていた》という、たいへん興味深いエピソードが記されています。
谷中安規彫刻のグロテスクな本棚! 美土代町の上田書店なのだそうですが、いちど行ってみたかった。
書籍の装幀や挿絵を数多く手がけ、内田百閒や佐藤春夫などとも交流がありました。
百閒先生は谷中安規のことを「風船画伯」と呼んで、その随筆のなかにもたびたび登場します。
風船みたいにふらふらして行方が分からなくなるから、この綽名がついたようです。
終戦後の昭和21年、焼け跡に建てた掘立小屋の中で亡くなっているのが発見されました。

『谷中安規の夢』は、2003年から2004年にかけて、渋谷区立松濤美術館、須坂版画美術館、宇都宮美術館と巡回した展覧会の図録です。
「シネマとカフェと怪奇のまぼろし」というサブタイトルが付いています。
それまで、まとまった数の作品を展示する回顧展はほとんど開かれていなかったようで、新聞の美術面に取り上げられるなど、結構な話題になっていました。
ただし、巷間に広く知れ渡っている版画家ではありませんでしたので、展覧会図録はもともとの発行部数が少なかったのかもしれません。
松濤美術館を訪れて、さっそく売店で図録を買おうとすると、同館で取り扱う冊数はすでに完売となっていて、かなりがっかりしました。
サブタイトルに合わせたわけではないのでしょうが、まさに「まぼろし」の図録です。
定価は、たしか2500円くらいだったと記憶しています。
次の巡回先である須坂や宇都宮へ遠征して、是が非でも入手するという方法があったのかもしれませんが、そこまで貫く気力はありませんでしたので、あとは古本で探すということになります。
焦らず待っていればそのうち見つかるだろうと、最初は気楽に構えていましたが、甘い考えでした。
いくら探しても見かけませんでしたし、ついに見つかったと思うと、1万円を超える古書価に跳ね返され、そうやっておよそ6年のうろうろの挙句、この日の結末に至りました。
版画作品、装幀、挿絵、カット、スケッチ。充実したカラー図版と、詳細な年譜や文献目録、さらに巻末には随筆と書簡をまとめた「谷中安規文集」が収録されており、この『谷中安規の夢』は、発行から20年が過ぎた今でも、版画家の全体像を知る恰好の1冊と言えるでしょう。
現在は5000円前後というところ、古書価はだいぶ落ち着いているようです。
それでも、20年前の図録に5000円が付くということは、それ相応に珍しく、また人気があるのでしょう。