【2010年12月7日】
久しぶりに国立へ。
みちくさ書店で『難波田龍起詩集』を見かける。
過去の古書目録をおさらいしていてこの書名を見かけ、難波田龍起が詩を書いていたことを知ったのは、つい最近のことだ。
価格、2500円。安くはないが、みちくさ書店にもすっかり御無沙汰していたし、挨拶代わりに買ってみようかと思う。
取敢えず棚に戻しておいて、奥の階段から地階へ降りる。
北尾鐐之助『あめりか写真紀行』という1冊が目にとまる。
大正15年、大阪毎日新聞社刊、函付で3000円。大正時代のアメリカ写真紀行というのは魅惑だが、初めて見る本なので、3000円が高いのか安いのか見当もつかない。一旦、棚に戻しておく。
うッ、『ナンセンスの機械』の出現に、また心臓が痙攣しそうになった。いくらだろう。
1万円也。やっぱりそうだろうな。甘くはないな。しかし、こんなことを繰り返しているとそのうちほんとうに心臓が止まります……、と弱々しく古本の神様に訴えてみる。
ついでに、みすず書房や平凡社からムナーリの著作が続けて出版されている昨今、そろそろ『ナンセンスの機械』を復刊してもよいのでは、と筑摩書房に向かって念じる。筑摩書房がどこにあるのかは知らないが。
さて、難波田龍起と北尾鐐之助と、2冊いっぺんでは財布が釣り合わないから、両者を天秤にかけるとなると、やっぱり85年前の写真紀行に傾くだろう。
『あめりか写真紀行』購入する。みちくさ書店の地下売場で買物するのは初めてだった。
階段を上がり、先程の棚の前で『難波田龍起詩集』にすまぬと謝りつつ外へ。
増田書店へ行くと〈読書週間書店くじ〉の当選番号が貼り出してあった。2枚持っていたが、ハズレ、ハズレ。
特等図書カード5万円の夢をはかなく引きずりながら、講談社文芸文庫、学術文庫、岩波文庫、岩波現代文庫、無料の解説目録を貰う。
ロージナ茶房、いつのまにか2階席は禁煙になった模様。
邪宗門の建物はまだそのままで、まだ誰か、扉の脇に花を供えている。黄色い薔薇の花。
【2023年2月追記】みちくさ書店/国立邪宗門
当時「みちくさ書店」は、国立駅前のバスロータリーに面したビルの1階にありました。
入口に扉はなく、開けっ広げで、店舗というよりは、通路です。
明らかに、通路でした。
店内の突き当たりにはドアがあって、その向こうには何か別の会社の事務所があり、また店内の中程には2階へ上がる階段がありました。
事務所や2階の人たちは、いつも古本屋の店内を通って行き来をしていました。
経緯を知る由はありませんが、ビルの通路の壁面に本棚を持ってきて、古本屋に仕立て上げたのでしょう。
もちろん屋根はありましたが、露店の延長という雰囲気です。
店内の奥には地下へ降りる階段があって、地階でも古本を売っていました。
階段口には〈古書、地下にあります〉と案内札が下がっているのですけれど、見下ろす先の入口は何やら薄暗く、思わず躊躇してしまうような、秘密めいた地下室でありました。
ちらりと覗いて、引き返してしまう人は多かったのではないかと思います。
地下へ降りてみると、わずかな通路だけを残して部屋は書物に埋もれ、古今東西の叡智や芸術や閃きが積み上げられた古書の巣窟でした。
往来からの出入りが頻繁な1階と同じお店とは思えないほどに、ひっそりと静まり返っていました。
2020年の5月、1階地階ともども、みちくさ書店は駅前ロータリーの店舗を閉じて、そこから歩いて2、3分の国立デパートへと移転します。
デパートと言っても、昭和の面影を色濃く残す、ビルの中の商店街です。
旧店舗は、あの何かの会社も無くなって、事務所の跡がみちくさ書店の買取専門窓口となりました。
通路の本棚はきれいに取り払われて、植え込みなど置かれ、ここに古本屋があったとはとても思えないくらいに、今ではどこからどう見ても通路としての光景を呈しています。
◇
「邪宗門」は、やはり国立駅前にあった喫茶店です。
増田書店の裏手あたり、桜並木の大通りから横丁に入った商店街の一角にありました。
煉瓦張りの古い建物。立てつけの悪い木枠の扉。独特の風貌をした老店主。
シャンソンが流れていて、狭い店内の壁にはやたらと柱時計が掛かっていて、時計はすべて違う時間を示していました。
骨董品、古道具、何かのがらくた……。
身をうずめるように腰かけて、買ったばかりの古本を眺めるのは、ささやかで贅沢な愉しみでした。
窓際の六角形の小卓はどうしても安定してくれずに、カタカタとぐらつくのです。
興が向くと、老店主はテーブルに出張して、得意の手品を始めることがありました。
私が居合わせたかぎりでは、手品を披露する対象は、必ず女性のお客さんだったようです。
2008年の12月に御主人がお亡くなりになって、駅から至近の異世界は、地上から消えてしまいました。
多くの人が、邪宗門を愛し、その店主を慕っていたのでしょう。閉店から2年が経っても、入口の脇には花が供えてありました。