【2010年12月3日】
早朝、豪雨があったが、9時頃になると風雨は収まり日が射しはじめる。
西部古書会館、西部展。
最初に、松山文雄『新しい漫画、童画、版画の描き方』を確保して、それから『小さい新聞社』と『電力』岩波写真文庫を2冊(各210円)と、別府鶴見園御案内の古いチラシ(2枚525円)。
そのあたりで決まりかけたのだが、最後になって松山文雄、返却する。
雲の捌けた空はくっきりと青空。上着を着ていると暑いほどの陽気になった。
午後1時、御茶ノ水。続いて東京古書会館の和洋会。会場内には季節外れの冷房が入っている。
中山省三郎『豹紋蝶』が2000円で出ていたが、同じ新詩叢書の『二十四時』でこのあいだ半ベソをかいたばかりなので今日は用心深くなっている。見送る。
加藤美侖『最新商略商業常識是丈は心得おくべし』(誠文堂)200円と、『嗜好別冊・続ビールブック』(明治屋)100円と、小物を2点。『是丈は心得おくべし』の題名で幾冊もの心得集を著わしている加藤美侖なのだが、美侖、何と読むのだろう?
会計の直前に『松倉米吉全集』(十善社)500円を追加する。全集と言っても200余頁の小冊だ。
短歌を中心に随想と書簡を収めてある。アララギ派の歌人だったらしい。巻頭の年譜を見ると、大正8年、25歳で早世している。
先日、岩波書店のPR誌『図書』12月号を眺めていたら、田村書店の広告欄に『左川ちか全詩集』の案内があった。「新版」とあり、「当店取扱」と記してある。
新版が刊行されることにまずびっくりだが、旧版と同じく森開社の発行であることにも驚いた。森開社は疾うに廃業していたとばかり思い込んでいた。
その旧版(1983年刊)の全詩集は、7月の和洋会目録に出品されていて、15000円の値が付いていた。逆立ちしても入手は無理だと諦めていたのに、何と言うことだ詩集のほうが逆立ちしてくれた。新版の頒価は4700円。
一応、三省堂と東京堂を覗いてみたが、どちらも『左川ちか全詩集』は置いていないようだった。
それでは田村書店へ。
逸る心を抑えつつ、まずは店頭台から『彼方』J・K・ユイスマンス(創元推理文庫)100円、『宇宙を観た人』中村誠太郎(平凡社カラー新書)100円、『わが文壇青春記』田村泰次郎(新潮社)300円。
代金を払いながら全詩集のことを尋ねると、店頭担当の若い店員さんはハッと息を呑んだような顔つきになって「奥へ……」とだけ言う。奥へ導いてくれる素振りはない。
なぜだろう。何か訊いてはいけないことを私は訊いてしまったのだろうか、不安になる。
この書店の奥には、閻魔様というのか仁王様というのか、ずしりと鎮座した御大が、ジロリと睨みを利かせているはずだ。
恰度、先客との雑談の最中だったので、話が終わるのを待ってから、恐るおそる御主人の前へと進み出る。
「左川ちかの……」と言いかけるや、間髪を入れず「そこにある」と金棒のような指で指差してくださる。
「そこ」が判らずにまごついていると「そこだよそこ」と、「そこ」の追討ち。あわわ……あ、あった。
指先が震えてうまくページをめくれない。
急くように押し開けば、新しい紙の上から、古い言葉が新しい匂いでよみがえる。
本の売れない時代によくぞ新生したものだなあ、などと、ここで暢気な感慨を催している場合ではないのだが、本に巡り合うという恍惚境は、しばし自分の置かれた立場を忘れさせてしまう。
ハッと正気に返り、これください。
オウと言って、御主人は机の脇から新しい1冊を取り出して、包んでくださった。
もうずっと前、ここの書棚で昭森社版の『左川ちか詩集』を見かけたことを、忘れもしない16000円、申し出ようかどうしようか、一瞬くらくらし、機を逸する。
『左川ちか全詩集』新刊で4700円。1冊の本を買っただけで、全身、汗びっしょり。
ミロンガで一息つく。
昂ぶりを静めながら包みをといて、買ったばかりの本を開くとき、すでに情が移ってしまっているということなのか、もうほとんど読み終えたような気分にさえなる。
悠久堂、村山書店、八木書店など、もう少し店頭棚をうろうろ。玉英堂書店では店内にも入ってみると、中村正常の『隕石の寝床』と『ボア吉の求婚』があっさり並んでいた。『隕石』12000円、『ボア吉』15000円。帳場の正面の飾り棚には岩佐東一郎の詩集『航空術』だ。高価であることは素人目にも明白だが、田村書店をくぐり抜けたあとではつい大胆になってしまって、手を伸ばす。25000円。
次はどこか、岩佐東一郎をまとめて再刊してくれる出版社はないものか。
先月閉店した巌松堂図書。
鎖された硝子戸から無人の室内を覗くと、空っぽの店頭台や荷台付自転車が薄暗がりにぼんやりと浮かび、その奥には、まだ書棚に収まったままの古本が、退屈そうな蒼白い影であった。
矢口書店の店頭で100円の鉄道随筆、市川潔『専務車掌紳士録』(朝日新聞社)を購入する。
【2023年2月追記】田村書店御主人
「田村書店」の御主人は、2021年の暮れにお亡くなりになられたようです。
田村書店は店頭と店内の会計が別々になっていて、店頭の均一本や廉価本を購入するときは、専任の店員さんがその場で対応してくれます。
それぞれが別のお店というような趣きです。
さらに、店舗の2階は洋書部になっていますが、洋書に縁のない人間にとっては、まったくの別世界ということになります。
普段は、専ら店頭を利用する身ですので、店内に入ることは滅多にありませんでした。
店内の棚には貴重な文学書が整然と並んでおり、古書を実地で学ぶにはまたとない書棚ではありましたが、値段も相応ですから、無闇と冷やかすことはためらわれるわけです。
それに加えて、帳場の御主人の威光があまりにも強烈で、意気地なしの散歩者は、おいそれと足を踏み出せません。
たまに店内へ入ってみた際に、御主人の叱声が響く場面に遭遇したりすると、いよいよ全身がすくみます。
店内の本を買ったのは、僅かに数えるほどという有様ですが、その数少ない本の中で、もっとも印象に残るのが『左川ちか全詩集』です。
あのときの素晴らしい緊張や、「オウ」という御主人の一声は、今なお鮮明です。
御主人のほんの一面に、私は接したにすぎませんけれど、まさに、古書の厳父でありました。
〈関連日記〉
田村書店につきましては下記もご参照ください。
→【2010年9月17日/2023年1月追記】和洋会で奥野他見男、田村書店で縮み上がる