【2010年5月29日/2023年1月追記】湘南古本散歩、平塚・藤沢

【2010年5月29日】
平塚市美術館にて長谷川潾二郎はせがわりんじろう展を見る。
《つまり私が描いているのは実物ではありません。
 しかし、それは実物なしでは生まれない世界です。》
画家の制作ノートの言葉を手帖に書き写しながら、夢と現実との境目で描かれたような絵の前を通り過ぎたり、立ち止まって入り込んだり。

長谷川潾二郎はまた地味井じみい平造へいぞうというペンネームで探偵小説を執筆していたという経歴を初めて知り、古本に取り憑かれた魂を絶妙にくすぐられたのだが、水谷準責任編集の『探偵趣味』や、あの『新青年』や、戦前に発行された掲載誌を見つけるのは難しそうだ。
展覧会の図録は、長谷川潾二郎画文集『静かな奇譚』という題で求龍堂が発行。一般書店でも販売しているらしいから、余っている図書券を使ってそのうち三省堂か書泉かで買えば経済だし、あわてて買う必要はなかったのだけれど、ぱらぱら立ち読みすると収録された随筆を早く読みたくなってきて、あわてて買ってしまった。

美術展のあとは、平塚と藤沢の、湘南古本散歩。
まず平塚駅北口のリ・ボン館。リボン館ではなくリ・ボン館。
最近の出版物が中心だが割合に古めの本も置いてあった。全体的に価格の設定はあっさりしているようなので、運が良ければ思わぬ掘出し物にぶつかるのかもしれない。萩尾望都『精霊狩り』(小学館文庫)150円を買う。
東海道線をまたいで南側の八重咲町。駅西口の階段を降りたすぐ前に萬葉堂書店。小さく好ましい店構えで、全ての駅の駅前にこういう古本屋があった良いなと思わせる佇まいだ。
戸を開けると、帳場でうとうとしていたらしい御主人が目を覚ました気配がする。背中がピリッと緊張する。入口に近い棚に雑書をまとめてある他は、函入りの端整な書物が部屋を取り囲む。
雑書、雑書、と目を皿にするが見つけられず。思い切って昭森社の詩集を取り出してみるが3000円。知らない町で知らない古書を1万円くらい買物できたらさぞや爽快だろうと夢想しながら静かに戻す。
手を伸ばしたのはその1冊だけで、棚の上段に鎮座している『笹澤美明全詩集』を下から拝むなどして、何も買えずに退散となる。
お店の外に出たとたん、そういえばさっきの昭森社の詩集の著者は熊武平二だったか熊平武二だったか、もう忘れている。

続いては藤沢へ。北口を降りてすぐ、銀座通りの取っつきに太虚堂書店。三角形の狭い店内だが、すっきりと片付いており清々しい。絵本などは小さい絵本から大きい絵本へと、判型を揃えて背の順に整列していた。『新家庭論』堺利彦(講談社学術文庫)367円、『旅の絵本』谷内六郎(旺文社文庫)262円、『猫が耳のうしろをなでるとき』M・エーメ(ちくま文庫)230円。廉価の文庫本を3冊。

銀座通りを先へ進んで湘南堂ブックサーカス。講談社学術文庫の杉山茂丸『百魔』が上下2冊で9000円。『城左門全詩集』が4000円。あえなく白旗をあげる。
近くのブックオフはひとまず素通りして、さらに先の光書房へ。ずいぶん細長い店内だ。遙か彼方に御主人が座っておられた。
もう一軒、銀座通りには祥書房があるはずなのだが発見できず。
さっきのブックオフへ引き返し、105円均一棚から『辻邦夫全短篇』1・2(中公文庫)。
ああハラヘッタ。もう古本はやめて牛丼とビールにするか、と弱気になる。ラーメン屋の前を通るときのラーメンの匂い。

しばらく道に迷ってから中央シネマに辿り着き、その正面に聖智文庫。
店内を一瞥すると、ほとんどすべての本にきちんとパラフィン紙が巻かれている。見た目のとおり、価格もきちんとしているようで、貧客の出番はなさそうなのだ。ご常連だと思うのだけれど、やたらと話好きのお客さんが、宝くじや馬券の買い方について熱弁していた。聞き役の御主人はちょっと退屈そうに見受けられた。
さて、中央シネマの隣りには古びた木造家屋があって、ガラス戸の向こうには色褪せた文庫本が並んでいる。3冊200円という手書きの札も見える。古本屋? 事前に調べたときにはまったく気がつかなかった。庇には、ふれあいの店、とある。
木枠のガラス戸を開けると、本棚の陰の仄暗い座敷から「いらっしゃいませ」と、お婆様の声が聞こえた。姿は見えない。見えるのはサスペンスドラマを映すテレビの画面だけだ。
せっかく見つけた古本屋だったが、どこに手を伸ばしてよいか判らぬままに終わってしまった。どこでも見かけるような文庫本に混じって、ただ1冊、コバルト叢書『完全なる夫婦』が強烈な異彩を放っていたが、たいへん残念なことに、すでに持っている本だった。

駅の南口に移動。
フジサワ名店ビルの1階に、ぽんぽん船という風変わりな屋号の古本屋。『桂枝雀のらくご案内』桂枝雀(ちくま文庫)100円を買い、それから5階に上がって有隣堂の古書売場。新刊書店の一角で古書を販売するのは、高田馬場の芳林堂書店と同様だ。4月末に新設したばかりなのだそうだが、新刊と古書との共存というやり方が広まりつつあるのかもしれない。
訪れて来たばかりの光書房や聖智文庫、見つからなかった祥書房など、地元の古書店が出品している。その聖智文庫の棚、先程の店舗のほうでは署名入り3000円だった『石神井書林日録』内堀弘(晶文社)が、署名ナシで735円だった。こういう救済処置は助かります。

駅構内のコーヒー店で一服。
滅多に訪れない町の古本屋を散歩するときは、無理をしてでも予算を奮発したほうが結局は気持よいのだろうな、と反省する。今日の私は、百円硬貨のような目玉で、ぎらぎらと安物ばかりを探しすぎた。見落とした良書がたくさんあったことだろう。
それにしても藤沢は古本屋が多い。今日は通過したけれども茅ヶ崎にも何軒かあるようだし、これは湘南文化の底力なのだろう。隣りの席に座った白髪の老婦人は、粋な仕草でポテトフライをちょいとつまみながらコーヒーを飲んでいるのだけれど、そうするとこれなども、湘南文化の一端なのかしらん。

帰りの電車では『静かな奇譚』を取り出して、長谷川潾二郎の随筆を読む。大判の画文集は、車中で読むには不便なのだが家まで待てない。よい文章だ。ただ、この藤沢発新宿行きの小田急線急行電車は冷房をこれでもかというくらいに気前よく提供してくれてちょっと寒い。

2010年5月29日 今日の1冊
*太虚堂書店/藤沢
『旅の絵本』谷内六郎(旺文社文庫/1980)262円

谷内六郎「旅の絵本」表紙

【2023年1月追記】
長谷川潾二郎【はせがわりんじろう、1904-1988】と言えば、猫のタローを描いた絵がもっとも有名でしょう。気持よさそうに眠っています。片方の髭が描かれていなことでも知られています。
画文集『静かな奇譚』の表紙を飾る作品でもありますから、当然「今日の1冊」として掲げたいのですが、また、久方ぶりに長谷川潾二郎の文章を読み返したいところでもあるのですけれど如何せん、積み上げた古本の山のどこかに埋もれてしまっていて、なす術ありません。

求龍社刊『静かな奇譚』は現在も新刊で入手できます。税込価格3300円です。
そのほか、
画集『長谷川潾二郎』小柳玲子企画編集(岩崎美術社「夢人館」シリーズ第4巻/1990) 
図録『長谷川潾二郎展』榊原悟監修(岡崎市美術博物館/2016)
以上2冊が刊行されています。いずれも絶版ですので古本で探すことになります。
画業以外の文章については、随想の幾篇かは『静かな奇譚』に収録されていますが、探偵小説となると元から作品数が少ないということもあり(10篇前後?)、単行本にはなっていません。
画家にとって文筆活動のほうはあくまでも余技であったようです。
しかしそうは言っても、このまま散逸させてしまうのは何とも惜しいです。
随想、制作ノート、地味井平造名義の探偵小説など、これらをすべて収録した『長谷川潾二郎全文集』が出版されないかと待ち望んでいるのですが……。

『静かな奇譚』の代わりに「今日の1冊」は『旅の絵本』に登場願いました。
もちろん代役と言っては失礼になります。
普段は利用しない路線に乗って、少し遠出をした日の古本屋で、この『旅の絵本』は、好適な買い物でした。

歩きまわった古本屋さんのその後を簡単にまとめておきます。
【平塚】
「リ・ボン館」閉店。
「萬葉堂書店」2017年9月30日店舗閉店。通販のみの事務所営業へ。
【藤沢】
「湘南堂ブックサーカス」閉店。
「聖智文庫」店舗閉店、事務所営業へ移行。南部古書会館(五反田)の即売展に参加されています。
「ふれあいの店」閉店。
「ぽんぽん船」閉店。

萬葉堂書店以外のお店の閉店時期は不詳です。
また、この日は辿り着けなかった「祥書房」も、移転して現在は事務所営業のみです。ひょっとすると当時すでに移転したあとだったのかもしれないと考えられなくもないのですが、詳細不明です。
ついでながら、中央シネマとあるのは、正しくは「フジサワ中央」です。当時は藤沢市で唯一の映画館だったとのことですが、この日の3か月後、2010年8月31日で閉館となってしまったそうです。
十年一昔……。移り変わるのは仕方ありませんけれど、それでも、
「太虚堂書店藤沢駅北口店」
「光書房」
「ブックオフ藤沢駅北口店」
有隣堂5階の古書売場「リブックス藤沢店」
以上の4店は現在も営業しています。